「痛くなってから歯医者に行く」という日本の当たり前を変えたい。そんな強い思いから、歯科業界のデジタルトランスフォーメーション(DX)に挑むスタートアップが京都にある。
株式会社SQRIE(スクリエ)だ。
同社は、スマートフォンと独自の特許取得器具「HAKKENミラー」を組み合わせた画期的なオンライン歯科健診サービスを展開している。
代表の岡本孝博氏は、アパレル業界のデザイナーから歯科医師へと転身し、京都大学医学部附属病院などで10年以上の臨床経験を積んだという異色のキャリアの持ち主だ。
なぜ臨床現場を離れ、ビジネスの世界へ飛び込んだのか。そして、一度は壁にぶつかりながらも事業をピボットさせ、企業の「健康経営」をも巻き込んで進める予防歯科の未来とは。エグゼクティブ層も知っておくべき、口腔ケアと労働生産性の関係性や、新たなビジネスモデル構築の裏側に迫った。
アパレルデザイナーから歯科医師へ。異色のキャリアがもたらした視点
── アパレル業界のデザイナーから歯科医師になり、さらに起業された独特のキャリアをお持ちです。まずは、医療の道へ進むことになった背景からお聞かせください。
岡本 もともとは高校を卒業した後、四条河原町の路面店でアクセサリーの販売をしていました。そこでヘッドハンティングしていただき、アパレル業界でデザイナーとして働くことになりました。
当時はものづくりやデザインの仕事にやりがいを感じていましたが、長く働く中で、自分の特徴を生かして直接的に社会の課題に貢献できる道はないかと見つめ直しました。自分の中でさまざまな葛藤を経て、世の中の普遍的なことを仕事にしたいと考え、歯学部へ進学しました。
── 京都大学医学部附属病院などで長らく臨床現場に立たれています。現場で充実したキャリアを築かれていた中で、なぜ「起業」という道を選ばれたのでしょうか。
岡本 臨床の現場で10年以上、多くの患者さんと向き合ってきた中で、非常に強く感じた“もどかしさ”があったからです。 病院に来られる患者さんの多くは、すでに症状が進行してしまっており、歯を失ってしまったり、痛みで生活の質(QOL)が大きく低下してしまっていたりする状態でした。
私たちがどれだけ最善の治療を尽くしても、「もっと早くに見つけていれば」「もっと早く予防できていれば」という後悔を抱く患者さんを減らすことには限界がありました。
医療の現場にいるだけでは、この「歯は後回し」という構造的な課題を根本から解決することはできない。そう痛感したことが、病院を飛び出してビジネスの力で仕組みを変えようと考えた最大の理由です。
歯科業界のイノベーションを阻む「構造的な壁」とピボットの決断
── SQRIEを立ち上げてから、現在展開されているオンライン歯科健診の事業に至るまでには、どのような試行錯誤があったのでしょうか。
岡本 起業した当初は、歯科領域における別のテクノロジーアプローチで事業を立ち上げようと模索していました。
具体的には、最新の技術を使って、いまだに職人の手作業に頼っている部分をデジタル化し、もっと多くの人にスピーディーに価値を届けられるのではないかと考えていた時期もありました。
しかし、実際にスタートアップとして事業を進めようとすると、さまざまな壁にぶつかりました。
医療業界特有の良い意味での厳格な法規制や、業界内の実情などもあり、ベンチャー企業が資金的に結果を出さなければいけないスピードと、世の中の変化のギャップがありました。
── 新しい技術を導入しようとしても、既存のルールや業界の慣習が立ちはだかったわけですね。
岡本 おっしゃる通りです。どの業界でも言えるのですが、医療においては中でも安全や道徳が問われることが多く、責任を取れる人は国しかないが、国は何か一つでも反対案があると、見送ります。いくら技術的に可能であっても、それが社会に受け入れられ、安全かつ適法にスケールするモデルでなければ事業としては成り立ちません。
そこで私たちは、一度立ち止まって事業の方向性を大きく見直しました。その結果、行き着いたのが、「どうすれば人々がもっと気軽に自分の口の中の情報のギャップを埋めることができ、予防への第一歩を踏み出せるのか」という、極めてシンプルかつ本質的な問いでした。
そこから生まれたのが、現在の主力事業であるスマートフォンを使ったオンライン歯科健診サービスです。
スマホと独自ミラーで実現する「HAKKEN」。イノベーションの空白地帯を埋める
── 展開されているオンライン歯科健診サービス「HAKKEN」について、具体的な仕組みを教えてください。
【HAKKENミラーの写真、使っているところのイメージなど】
岡本 「HAKKEN」は、ご自身のスマートフォンと、当社が開発した特許取得済みの専用器具「HAKKENミラー」を使って、自宅にいながら歯科健診を受けられるサービスです。
口の中は、自分で撮影するのが非常に難しいので、私たちは、スマートフォンのライトの光を効率よく反射させ、口の奥まで明るく照らしながら綺麗に撮影できる特殊なミラーを開発しました。
ユーザーはこのミラーを使って口の中を撮影し、アプリ経由で画像を送信するだけです。その画像をもとに、歯科医師がオンラインでチェックを行い、フィードバックを返します。
── なぜ「オンラインでの健診」が必要だと考えたのでしょうか。
岡本 日本の歯科受診率は、先進国の中でも決して高いとは言えません。「痛くなってから行く場所」という認識がまだまだ根強いからです。読者のように仕事が忙しいビジネスパーソンにとって、わざわざ時間を削って歯医者に予約を入れ、足を運ぶのは非常にハードルが高い。育児をしているお母さん方も同じでしょう。
実は、歯科というのは「イノベーションとは真逆の地帯」とも言える領域です。道徳やルールを重んじる必要があるため、そういう傾向になる。内科などの領域ではオンライン診療や遠隔医療の議論が進んでいますが、歯科は「直接見て、触って、削る」という物理的な処置が前提となっているため、デジタルの入り込む余地が少ないと思われていました。
しかし、「健診」(スクリーニング)という入り口の部分であれば、画像を通じて異常の兆候を発見し、「これは一度、実際に歯医者に行って診てもらったほうがいいですよ」と背中を押すことは十分に可能です。 この「最初のハードルを極限まで下げる」ことこそが、予防歯科を広めるための最重要事項だと考えています。
口腔ケアが「健康経営」を左右する。労働生産性と全身疾患への影響
── 御社のサービスは、個人だけでなく企業向けにも展開され、「健康経営」の文脈で導入が進んでいるそうですね。
岡本 はい。現在、私たちはBtoBの事業として、企業様に向けた福利厚生や健康経営の一環として「HAKKEN」の導入をご提案しています。
実際に、社員の方々を対象としたオンライン歯科健診の実証実験なども行なっています。経営層やビジネスリーダーの皆様にぜひ知っていただきたいのは、「歯の健康は、全身の健康や労働生産性に密接に関連している」という事実です。
たとえば、歯周病は糖尿病を悪化させる要因となることが医学的に証明されていますし、心疾患や脳血管疾患のリスクを高めるとも言われています。
さらに、「認知症」との関連性も指摘されています。しっかり奥歯で噛めている人と、歯を失って入れ歯なども合わずに噛めていない人とでは、記憶力の低下や認知症の発症リスクが大きく異なるというデータが存在します。
歯の痛みや違和感がある状態では、仕事への集中力は著しく低下し、労働生産性にも大きく影響します。また、歯周病が進行してしまえば、最終的には抜歯や大掛かりな治療が必要になり、長期の通院による時間のロスが発生します。企業が会社の成長を支える社員の心身の健康を守るためには、これまでの健康診断に加えて「歯科健診」をセットで提供することが非常に重要です。
当社のオンライン健診であれば、社員は会社や自宅でスマホを使って手軽に実施できるため、業務の負担をかけずに受診率を向上させることができます。
歯科医師・起業家としての個人プロジェクト。スポーツの力への共感と支援
── 企業向けの展開にとどまらず、スポーツ業界との関わりも持たれているそうですね。
岡本 はい。ただ、これはSQRIEとしての公式な事業展開というよりも、私個人の活動やライフワークに近い部分です。具体的なお名前はまだ出せないのですが、現在ある特定の競技団体と、何か一緒にできないかと少しずつお話をさせていただいています。
私は、スポーツというものはこの時代の「救世主」になり得るのではないかと思っているんです。スポーツはルールに則った、個性ある平等な戦いであり、平和を願うサインであり、選手の地道な努力の結晶です。そうした素晴らしい世界に対して、一人の歯科医師として、また起業家として、「歯」や「口腔ケア」の観点から何か一助になれないかと考えています。
── アスリートにとって、歯や噛み合わせはパフォーマンスに直結すると言われます。
岡本 おっしゃる通りです。最高のパフォーマンスを発揮するためには、口腔内の健康状態が非常に重要になります。
しかし、彼らもまた日々厳しい練習や遠征に追われ、なかなか定期的に歯科医院へ通う時間を確保しづらいという課題を抱えているはずです。
そうした忙しいアスリートたちのお口の健康管理を、私たちのオンライン歯科健診の仕組みや、私のこれまでの知見を活かしてサポートできる可能性があります。スポーツが持つポジティブでエモーショナルな力に共感しているからこそ、個人的な情熱も含めて、健康を支える新しい取り組みを少しずつ形にしていきたいですね。
エビデンスなき革新は根付かない。大学院での研究と海外事例への着目
── 企業やスポーツなど多方面で予防歯科の啓発を進める一方で、現在は大学院でも研究を続けていらっしゃるとか。
岡本 はい。昨年度から大学院に通い、海外におけるオンライン歯科診療の事例を研究しています。実は今、あえて自社アプリの開発より、論文執筆のほうに注力しているところなんです。
── スタートアップの代表が、あえて開発の手を止めてまで研究に打ち込む。そこにはどのような意図があるのでしょうか。
岡本 日本の医療業界において、新しい仕組みを社会実装するためには、テクノロジーの便利さ以上に「安心・安全」の根拠、つまりエビデンスが不可欠だからです。
海外では、たとえば介護現場で家族がスマホ撮影した口内の画像を歯科医師に送るといった仕組みが、エビデンスに基づいて有効性が証明され、すでに社会のインフラとして役立てられているところもあります。
一方、日本ではオンラインの活用というと、法規制や「診断」と「健診」の境界線といったグレーゾーンの議論が先行し、なかなか一歩が踏み出せない現状があります。
── ベンチャーのスピード感と、医療の慎重さの折り合いをどうつけるか、という問題ですね。
岡本 おっしゃる通りです。かつてアパレル業界にいた頃のようなスピード感だけで突き進むのではなく、まずは海外の先進事例を学術的に整理し、日本でもこれが信頼に足る手法であることを証明する。そうした地道なプロセスを踏むことが、結果として日本の医療におけるイノベーションを最短で実現する道だと考えています。
医療においては答えの早さだけでなく、地に足のついた正しさが求められます。社会が求めるスピードと、医療が求める誠実な歩み。そのアンバランスさを解消するためにも、今は研究者としてエビデンスを積み上げる時期だととらえています。
「お口の健康から生きるを変える」── 京都から発信するスタートアップの使命
── 御社のビジョンには「『お口の健康』から『生きる』を変える」という言葉が掲げられていますね。
岡本 「食べる」ということは、人間が生きる喜びの根本です。美味しいものを自分の歯でしっかり噛んで味わえるかどうかは、人生のクオリティ・オブ・ライフ(QOL)に直結します。
私は臨床時代、自分の歯で食べられなくなってしまった患者さんが、生きる活力を失っていく姿を数え切れないほど見てきました。だからこそ、私たちが提供するサービスを通じて「お口の健康」を守ることは、単に虫歯を防ぐということにとどまらず、その人の「生きる」という根源的な喜びと明日への活力を守ることに他ならないと考えています。
── 京都に拠点を置くスタートアップとして、今後の展望をどのようにお考えですか。
岡本 京都には、伝統と革新が同居する独自の土壌があります。医療やテクノロジーの分野においても、大学や研究機関が集積しており、新しいものを生み出すには非常に恵まれた環境です。
私たちはこの京都という地から、まず子供や高齢者からオンライン歯科健診の仕組みを広め、「国民皆歯科健診」が議論されている今の社会の波に乗って、予防歯科の新しいスタンダードをつくり上げたいと考えています。
最終的な展望は、私たちのプロダクトを全身の健康管理へとつなげていくことです。歯は全身と関係があるからです。口の中の画像データや健診のデータが蓄積されれば、将来的にはそこからさまざまな疾患の兆候を分析し、全身の予防医療に貢献することも可能になるはずです。
歯科のDXはまだ始まったばかりです。これからもアパレル時代に培った視点と、歯科医師としての知見を掛け合わせ、イノベーションを起こし続けていきたいと思っています。