歯の治療といえば、削ったり埋めたりするもので、インプラントや入れ歯を想像するのが一般的だろう。
しかし、京都大学発のベンチャー、トレジェムバイオファーマ株式会社は、先天的な要因や虫歯、歯周病などで失った歯を、薬の投与によって再生させる世界初の治療薬の開発に取り組んでいる。まさに歯科医療の常識を根底から覆すプロジェクトだ。
同社代表取締役の喜早ほのか氏は、自身も中学2年生の時に顎の骨の疾患を患い、入院手術を経て奥歯を失う経験をしている。その後、歯科医師として患者の悩みに寄り添うなかで、自らの原体験と重なる「歯の欠損」に対する既存治療の限界と、歯科医師としての無力感を感じていた。
転機となったのは、大学院で出会った恩師・髙橋克氏(現・同社CTO)による、歯の再生研究だった。この運命的な研究との出会いが、2020年に恩師との共同創業につながった。 2030年の実用化を目指し、京都から世界へ「人類の夢」を発信し続ける喜早氏の決断と、師から受け継いだ「患者さんに届ける」という信念に迫る。
歯科医療のパラダイムシフト「歯生え薬」とは
── 「歯が生える」というお話は、これまでの歯科治療の常識を根底から覆すものですね。具体的にはどのような仕組みなのでしょうか。
喜早 私たちの体には、本来「歯の芽(歯胚)」という組織が備わっています。乳歯が生え、永久歯が生えた後でも、実はその次に生えるための「第3の歯」の芽が、すべての人ではないにせよ、多くの人の顎の中にその存在が示唆されており、その成長を促すことによる歯の再生の可能性があることが分かってきました。
「歯の発生のメカニズム」
しかし、通常は「USAG-1」(ユーサグ・ワン)という特定のタンパク質がその成長に強力なブレーキをかけてしまい、芽が出ることはありません。
私たちの開発している「歯生え薬」は、このUSAG-1の働きを中和抗体によってブロックするものです。この「ソフトウェアのロックを外す」ような仕組みによって、眠っていた歯の芽が自然なプロセスで成長し、新しい歯として生えてくる。これが基本的なメカニズムです。
歯の発生を阻害するタンパク質のはたらきを抑えれば新しい歯を生み出せる
そこで私たちは、USAG-1のはたらきを抑える「抗USAG-1抗体」を開発しました。これを投与することで、歯胚の成長を止めず、新しい歯を成長させることができます。抗USAG-1抗体は、新しい歯を生やす「歯生え薬」となり得るのです。(画像=トレジェムバイオファーマWebaサイトより)
── これまでのインプラントや入れ歯といった治療とは、まったく異なるアプローチですね。
喜早 おっしゃるとおりです。これまでの治療は「補綴」(ほてつ)といって、失った機能を人工物で補うものでした。
しかし、人工物にはどうしてもメンテナンスの負担や、自分の歯ではないという違和感がつきまといます。もし自分の細胞から生えた「自分の歯」を取り戻すことができれば、噛む感覚もメンテナンスも、本来の健康な状態に近づけることができます。
そして、この技術はただ歯を増やすだけではなく、歯を支える組織の再生にもつながる可能性が期待されています。
── 科学的な裏付けについては、どのように進められてきたのでしょうか。
喜早 もともとこの技術は、取締役CTOの髙橋克(北野病院歯科口腔外科主任部長)が京都大学大学院医学研究科などで長年続けてきた研究成果にもとづいています。
髙橋の研究チームは2007年、通常よりも多くの歯を持つマウスに出会い、「なぜ歯が多いのか?」という疑問から調査したところ、歯の形成を抑制するタンパク質であるUSAG-1の遺伝子が欠損しているマウスに、過剰歯が形成されることを発見しました。
「歯は一度失ったら二度と生えない」という定説を疑い、数多くの実験を重ね、マウスやフェレットを用いた動物実験では、中和抗体を投与することで、実際に欠損していた部位に新しい歯が生えてくることも確かめました。
中学生時代に受けた手術がきっかけで口腔外科医を志す
── 歯科医師を志したきっかけ、創薬・起業の道を選ぶまでの経緯について教えてください。
喜早 歯科の道を志したきっかけは、中学2年生のときに顎の骨の病気で入院・手術を経験し、その際に奥歯を2本失ったことです。
病巣の大きさから、当初は口の外側から切開する手術方法が説明されたのですが、当時の先生が工夫をこらし、口腔内のみで処置を行うことで顔に傷を残すことなく手術を成功させてくださった。
その経験から、この仕事に憧れを抱き、口腔外科医を目指すことにしました。その時、「なぜ人間の歯は永久歯で終わってしまうのだろう?」という漠然とした疑問も芽生えていました。
2006年に京大附属病院で歯科研修医を経て、2008年に大学院の口腔外科に進学し、そこで、歯の再生研究を行っている髙橋と出会いました。
そして臨床現場では、「入れ歯が合わなくて食事が楽しくない」「インプラントをしたいけれど、骨が足りなくてできない」といった切実な悩みを聞いていたことも、髙橋の研究成果を実現して世に届けたいと考えるに至った理由です。
この素晴らしい研究を研究室の中だけで終わらせてはいけない、一刻も早く患者さんに届けなければならないという強い使命感に駆られました。
── 歯科医師から経営者への転身には、かなりの覚悟が必要だったのではないでしょうか。
喜早 そうですね。最初は「自分に経営なんてできるのだろうか」という不安もありました。口腔外科医としての道を歩めば、安定した将来もあったかもしれません。
しかし、私自身がこの研究の可能性を初めて目の当たりにし、そして何よりも「歯が生えてくる薬」を届けたいという強い想いがあり、決断しました。
── 創薬ベンチャーにとって、資金調達は命綱ですよね。
喜早 はい、まさにサバイバルです。創薬というのは、ITのように数ヵ月で製品ができるものではありません。一つの薬が承認されるまでに10年以上の歳月と、数百億円単位の資金が必要です。
私たちは設立当初から、さまざまなベンチャーキャピタルや投資家にアプローチをしてきました。
しかし、最初は「歯が生えるなんて信じられない」と門前払いされることも少なくありませんでした。それでも、粘り強くデータの信頼性を訴え、この薬がもたらす社会的な価値を説明し続けることで、少しずつ賛同者を増やしてきました。
── 投資家を納得させるために、どのような工夫をされたのですか。
喜早 単に「夢の薬です」と言うのではなく、具体的なロードマップとリスク管理を提示することに注力しました。
どのようなステップで治験を進め、どのようなハードルがあるのか。そしてそれをどう乗り越えるのか。科学的な客観性と、ビジネスとしての緻密な戦略の両輪を回すことが、信頼をいただくために不可欠でした。
また、私自身の「歯科医師としての視点」も大きな武器になりました。現場でどれだけの需要があり、患者さまがいくらなら払うのか。そうしたリアリティのある話が、投資家の方々の心を動かしたのだと思います。
現在では、京都大学イノベーションキャピタル(京都iCAP)をはじめ、多くの強力なパートナーに支えられています。
2030年の実用化に向けて進められる治験
── 現在、開発はどの段階まで進んでいるのでしょうか。
喜早 非常に重要な局面を迎えています。2024年10月から実施していた、人への投与を行う第1相の治験89を完了し、安全性に関する重要なデータを得ることができました。これは薬の安全性を確認するための試験で、まずは健康な成人の男性を対象に実施したものです。
現在は、その結果を踏まえ、先天性無歯症の方を対象とした次の治験の準備を進めています。先天性無歯症とは、生まれつき歯が足りない状態で、全人口の約0.1%、1,000人に1人ほどの割合でいらっしゃいます。
子どものころから歯がないことで、顎の発育不全や発音の障害に悩まれる方が多いため、まずはこの方々への承認を2030年までに目指しています。
── 生まれつき歯がない子を持つ親にとっては、まさに待望のニュースですね。
喜早 そうです。治験のニュースが出てから、全国の先天性無歯症のお子さんを持つ方から、「うちの子にもこの薬を届けてほしい」「いつから使えるようになるのか」といった切実なメッセージやお手紙をたくさんいただくようになりました。本当に一刻も早く届けなければならないという責任の重さを、改めて痛感しています。
先天性無歯症は、単に見た目の問題だけではありません。
歯がないことで咀嚼(そしゃく)が十分にできず、栄養摂取に影響が出たり、心理的なコンプレックスを抱えたりすることもあります。私たちは、2030年に向けて、一日も早くこの希望を現実に変えていく義務があります。
── その先は、どのような展開を考えていますか。
喜早 2030年代の早い段階で、後天的な要因、つまり虫歯や歯周病などで歯を失ったすべての方に、この薬を届けたいと考えています。
現在、日本人の高齢者の多くが、歯を失うことでQOL(生活の質)を低下させています。「噛めない」ことは認知症のリスクを高め、全身の健康状態にも悪影響を及ぼします。点滴や注射といった負担の少ない方法で歯を再生させることができれば、高齢者医療のあり方も劇的に変わるはずです。
── 治療費や保険適用の見込みについては、どのような考えですか。
喜早 もちろん、できるだけ多くの方が利用できるように、保険適用の対象となることを目指しています。インプラントなどは自由診療で高額になることが多いですが、この薬が普及し、標準的な治療の一つとして認められれば、経済的なハードルも下がっていくはずです。
そのためにも、効率的な製造プロセスの構築や、パートナー企業との連携を強化しています。将来的には、誰もが「歯を失っても、もう一度生やせる」という選択肢を当たり前に持てる社会を作りたいと考えています。
優れた研究を社会実装へと育てる文化。京都という地がバイオベンチャーを加速させる理由
── 京都大学発のベンチャーとして、京都という地でビジネスを展開することにどのような価値を感じていますか。
喜早 京都には、大学の優れた研究成果を社会実装へつなげようとする土壌があります。これは創薬という、長い年月を要する事業を進めるうえで非常に大きな支えになっています。
京都大学には「自由な学風」があり、そこから数多くのノーベル賞受賞者が輩出されているように、基礎研究の力が非常に強い。その土壌があるからこそ、私たちのような新しい挑戦が生まれるのだと感じています。
── 「京都ブランド」を実感する場面はありますか。
喜早 海外へ出向いた際、私が「フロム・キョウト」(京都から来た)と言うだけで、相手の反応がまったく違います。京都という言葉が持つ、歴史に裏打ちされた信頼感やブランド力には、日々助けられていますね。
── 歯の治療や口腔内の環境を良好に保つことはアスリートにとっても重要です。噛み合わせがパフォーマンスに直結しますし、特にバスケットボールのような激しいスポーツでは、接触で前歯を強打し、歯の周囲の骨ごと損傷してしまう「歯槽骨骨折」という事故が起こり得ます。
喜早 これまでは、そうした事故で歯を失ってしまったらインプラントや入れ歯などの人工物でしか治せませんでしたが、将来的にご自身の組織から歯を再生させるという、そういう「選択肢」を一つ、皆様に提供できればいいなというふうに思います。
絶望を希望に変える「執着心」。未来のリーダーへ贈る言葉
── 創薬ベンチャーの経営は、資金調達や治験の成否など、常に大きなプレッシャーとの戦いだと思います。困難に直面したとき、喜早社長はどのように向き合っていますか。
喜早 私が大切にしているのは、どれほど厳しい状況にあっても、周囲、特に社員の前では決して「絶望感」を出さないことです。リーダーが暗い顔をしていては、チームの士気は上がりません。資金調達が難航した時期もありましたが、常に「大丈夫よ」と明るく振る舞い、前を向き続けるように努めてきました。
── そのような強さを維持するために、何が必要なのでしょうか。
喜早 やはり、「なぜこの事業をやるのか」という根源的な問いを、とことん深掘りすることだと思います。私にとっては、それが「歯を失って悲しんでいる患者さんを救う」という揺るぎない大義名分でした。この大義名分があれば、どのような困難が訪れても、足元が揺らぐことはありません。
また、一人で抱え込まないことも重要です。私たちのチームには、私にない専門性を持った素晴らしい仲間がいます。彼らとビジョンを共有し、共に歩むプロセスそのものが、私を支えてくれました。
成功の反対は失敗ではなく、途中でやめてしまうことだと思っています。私の恩師である高橋を見ていて学んだのは、一つのことを30年も40年も突き詰める「執着心」の大切さです。
創薬の研究は、良いデータが出ずに苦しい時期が本当に長く続きます。それでも、患者さんに届けたいという思いを持ち続け、一歩ずつ進んでいく。そのような「執着心」こそが、新しい医療を実現するために最も必要な資質だと考えています。一日も早く患者さんにこの治療を届けられるよう、挑戦を続けていきたいと思います。