日本のがん検診受診率は、主要先進国の中でもきわめて低い水準にとどまっている。この現状に強い課題意識を抱き、線虫という小さな生物の能力を活かした世界初の一次スクリーニング検査「N-NOSE」(エヌノーズ)を実用化したのが、HIROTSUバイオサイエンスの代表取締役CEOである広津崇亮氏だ。
線虫の嗅覚研究の第一人者でありながら、日本の産学連携の壁を打破するために自らビジネスの第一線へと身を投じた広津氏。そこには、研究者と経営者の双方に共通する「本質を伝える」という強い信念があった。
元従業員によるデータ不正流出という大きな逆境や、新技術ゆえのさまざまな批判を乗り越え、バイオベンチャーとして異例の黒字化を達成した同社の組織マネジメント、そして即断即決を貫く独自の経営哲学に迫った。
一線を画す「線虫の嗅覚」。誰も成し得なかった一次スクリーニング検査の誕生
がん検診受診率50%未満という日本の構造的課題
── まず、「N-NOSE」がどのような課題意識から生まれたのか、医学や科学に詳しくない読者にも分かりやすく説明して欲しいです。
広津 日本におけるがん検診の受診率は、これほどの情報化社会であるにもかかわらず、きわめて低いのが事実です。
今の時代であっても、50%以上の人ががん検査に行っていないという状況にあり、日本の死因第一位は何十年間もずっと癌のままです。
がん死亡率の改善には、検診受診率の向上や早期発見・早期治療の推進が重要な課題の一つであるという意識がもともとありました。
既存のがん検査が抱えている課題を突き詰めると、その多くが「精密検査」のような重い検査ばかりであるという点に行き着きます。
検査を受けること自体が面倒、あるいは値段が高いといった理由で、受診のハードルが高くなってしまっているのです。
本来であれば、検査の入り口として誰もが気軽に受けられる「ハードルの低い検査」が存在していなければならないはずですが、それがこれまでの医療界には存在していなかった。これがもっとも大きな問題でした。
── つまり、検査のハードルを下げるための「一次スクリーニング検査」がこれまで不足していたということですね。
広津 そのとおりです。ここで誤解していただきたくないのは、N-NOSEは「がんを診断する検査」ではないということです。あくまで尿から全身のがんリスクを評価し、医療機関での精密検査の必要性を確認するための検査です。
がん診断の一般的なフローにおいて、N-NOSEが担うのは最初の「リスク評価」の段階のみです。私たちの検査でリスクに気づき、医療機関を受診してCTやMRIなどの精密検査を受け、そこで初めて医師による確定診断が下されます。適切な受診行動へ繋げるための「気づき」を提供することこそが、この検査の目的です。
その上で、一次スクリーニング検査に求められる特徴は、大きく分けて3つあります。まず、高い精度を備えていること。次に、安くて簡便であること。そして最後に、1回の検査で全身のがんリスクを網羅的に評価することです。
特定の部位だけを調べる検査では、全身をカバーするために何度も別の検査を受けなければならず、簡便とは言えなくなってしまいます。
このような「安く、簡便で、全身を一度に網羅できる検査」を作ろうと、これまで世界中で多くの研究者が何十年間もの時間を費やしてきました。
しかし、それを機械や人工的なセンサーで作ろうとしても、どうしても実現できなかったという歴史があります。その事実を知ったとき、私は「人間が機械で作ろうとするから限界があるのだ。すでに自然界に存在する生物の驚異的な能力をそのまま使えばいいのではないか」と思いついたのです。
そこがすべての始まりでした。
生物の驚異的な能力を技術へ昇華させる発想
── 機械に頼るのではなく、生物の力を借りる。その発想の転換が大きかったのだと思います。具体的には、どのような生物の能力に着目されたのでしょうか。
広津 がん細胞に固有の「匂い」があるということは、実は何十年間も前から医学界で言われていたことです。
がん患者の尿には特有の匂いがあり、これを生物が検知できることは研究されていました。
現代でも空港などで麻薬探知犬が活躍しているのは、犬の嗅覚を超える機械を人間が作れないからにほかなりません。
生物の嗅覚を使えば、きわめて高い精度を保ったまま検査ができることは分かっていました。
しかし、犬を検査に使うとなると、飼育や訓練、さらにはハンドラーの育成などに膨大なコストがかかってしまいます。
それでは1回あたり10万円を超えるような高額な検査になってしまい、誰もが気軽に受けられる一次スクリーニング検査にはなり得ません。
そこで私が注目したのが、「線虫」というわずか1ミリメートルほどの小さな生き物でした。線虫の嗅覚は犬並みに優れているという特徴を持っています。かつ、犬とは違ってきわめて安価に大量繁殖させることができる。
この2つの特徴を結びつけて、がんの検査技術として実用化しようと考えた人間が、世界中で私だけだったというわけです。
がんの専門家ではなく、嗅覚の専門家だからこそ見えた医療の盲点
既存の「5大がん検査」に潜む構造的な誤解
── 線虫の能力自体は知られていたが、それをがんの発見に結びつけたのは広津社長だけだったという点は興味深いです。なぜ、他の研究者はそこに気づかなかったのでしょうか。
広津 それは、私が「がんの専門家」ではなく、「線虫の嗅覚の専門家」だったからだと思います。
私はもともと大学などのアカデミアの世界で、純粋に線虫の嗅覚を研究してきた基礎研究者でした。
嗅覚の専門家だからこそ、生物の持つ嗅覚のすごさ、そのポテンシャルの高さを誰よりも身に染みて理解していたのです。
もし私が最初からがんの専門家であったなら、おそらく特定の部位の細胞や血液の成分を分析するような、従来の方法にとらわれてしまっていたでしょう。
専門外の人間だったからこそ、固定観念に縛られることなく自由な発想ができたのだと思いま す。
すべてのがんに共通する「匂い」の発見
── 1回の検査で全身のがんリスクが分かるというのは、にわかに信じがたいと感じる人も少なくないはずです。
広津 おっしゃるとおり、一般的には「部位ごとに検査をするものだ」というイメージが定着していますよね。
現在、国が受診を推奨している「5大がん検診」というものがありますが、現実問題として、がんの種類は5つだけではありません。
既存の考え方に従って「自分にはがんがない」ということを完全に証明しようとしたら、実際には毎年20何回もの異なる検査を個別に受け続けなければならないということになります。それは時間的にも経済的にも不可能です。
部位ごとではなく、まずは全身を網羅的に調べられるがん検査があるべきだ、と確信していたのです。
あらゆる部位のがんに「共通する匂い」が存在しており、がんの種類が違っても、線虫が反応する匂いの本質は共通しています。
だからこそ、N-NOSEであれば、わずか1回の尿検査だけで、全身の網羅的ながんリスクを一度に判定することができるのです。
ビジネスエグゼクティブが注目すべき「N-NOSE」のビジネスモデル
ネット通販と企業福利厚生という2大チャネルの相乗効果
── 現在、このN-NOSEを利用したいと考えた場合、どうすればいいのでしょうか。
広津 現在、大きく分けて2つの主要なチャネルがあります。
1つは、個人のお客様がインターネットを通じて直接ウェブサイトから購入する方法。もう1つは、企業や団体が福利厚生の一環として導入するというものです。社員の健康を守るための健康投資としてN-NOSEを導入し、検査費用の一部や全額を会社が補助するという形ですね。費用は1回あたり、税込み1万9800円からです。
特に経営層やエグゼクティブの方々の間では、自社の社員の離職リスクを防ぎ、健康経営を推進するための有効なツールとして、企業導入の動きが急速に広がっています。
なぜ「1万9800円」という圧倒的な低価格を実現できたのか
がんリスクを調べる検査としては破格だと感じます。なぜこれほどの低価格を実現できたのでしょうか。**
広津 世界を見渡してみると、新しいテクノロジーを使った全身のがん検査というのは、そのほとんどが1回あたり20万円や30万円といった非常に高額な費用がかかります。
もしこれを人間が作った機械や高精度のセンサーで実現しようとすれば、開発や製造に膨大なコストがかかってしまいます。
しかし、線虫という生き物はもともと持っている能力が最初から人間の機械を凌駕しているうえに、私たちの研究所では、ほとんど0円に近い形でいくらでも増やすことができます。
極めて高い嗅覚能力を持つ生物センサーを、実質タダで無限に複製できる仕組みになっているわけです。
だからこそ、これほど圧倒的な低価格と高精度を両立させられるわけです。
── この短期間でこれほどの規模に成長した要因と、利用者の属性を教えてください。
広津 累計100万検体という数字は、日本のバイオベンチャーが提供する新しい検査サービスとしてはきわめて異例のスピードだと自負しています。
特徴的なのは、従来の健康診断や重いがん検診と比較すると、きわめて若い世代の方々も多く受けてくださっているという点です。
従来の「病気になってから病院に行く」という古い受動的なスタンスから、リスクをあらかじめ予測して管理するという「新しい健康習慣」へと、社会の意識が確実にシフトしていることを実感しています。
調査研究において、ステージ0・1の早期がん患者の尿検体に対しても、80%以上の感度が確認されていることも、大きな特徴の一つです。
実は、当社の従業員からもこの定期検査をきっかけに、初期のがんが見つかったケースがあります。その他にもこういったケースが複数あります。
従業員は全員検査を受けていて、結果は当然非公開なのですが、本人がこっそり「ありがとうございます」と伝えてくれたんです。自社の技術で社員の命を救えたという事実は、この検査の意義を何よりも証明しています。
早期の段階でリスクが分かるとなれば、見つかった方が圧倒的にその後の選択肢が増えるため、人々が進んで検査を受けるようになるのです。
逆境に動揺しないリーダーシップ。偽情報と批判に対する覚悟
── 過去に一部メディアで批判的な報道がありました。
広津 新しい技術やサービスを社会に導入しようとするとき、批判やさまざまな意見が出てくるのは、ある意味で当たり前のことだと受け止めています。
しかし、当時起きた一連の騒動の本質は、学術的な批判ではなく、明確な不法行為、すなわち事件でした。
退職した元従業員によるデータの不正持ち出しや、その後の情報の取り扱いについて重大な問題があったと認識しており、現在も法的手続きを含めて対応を進めています。
記者はその持ち込まれた情報を精査することなく、一方的なストーリーに沿って記事を書いたのだと思っています。
この件については、元従業員によるデータの持ち出し行為について書類送検がなされており、当社としても重大な問題であると認識しています。そのため、一切の妥協をせず、法的な手続きを含めて適切に対応してきました。
── そうしたバッシングに対し、組織のトップとしてどのような心構えでいられたのでしょうか。
広津 私たちは、自分たちの技術やデータに絶対的な自信と誇りを持っていますから、当時も堂々と向き合っていました。
取材を行っていたメディアに対しても、検査センターや研究所を公開し、ありのままの姿を見ていただきました。
ただ、私たちとしては、現場でご覧いただいた内容や当社の考えが、必ずしも十分に記事へ反映されなかったという印象を持っています。しかし、その報道に対して感情的になることはありませんでした。
なぜなら、会社を創業したときから、共に立ち上げた創業メンバーを前にして、あらかじめ次のような話を何度もしていたからです。
「私たちが取り組んでいるのは、これまでにない新しいアプローチによる技術の社会実装だ。新しいものを世に出すときには、必ずさまざまな意見や反発が生まれる。そのときに、私たちは怖がって立ち止まるのか、それとも勇気を持って前へ進むのか」と。
そのとき、私たちは満場一致で「勇気を持って堂々と前に出よう」と決めていたのです。ですから、さまざまな批判や厳しい意見が寄せられたときも、うろたえることはありませんでした。
トップがブレずに毅然とした態度を貫いたからこそ、社内のメンバーも動揺することなく、自分たちの仕事に集中し続けることができたのだと思います。
研究者から経営者への転身。「リスクを背負う覚悟」が事業を動かす
日本の産学連携の壁を壊す「発明者先頭の原則」
── 基礎研究者から自ら起業し、経営者としてビジネスをリードするようになった経緯を教えてください。
広津 私はもともと、実用化とはもっとも遠い「基礎研究」の世界にどっぷりと浸かっていました。
自分でビジネスをやるつもりはまったくなく、経営は誰かビジネスのプロに任せて、自分は研究室にこもって研究を続けようと考えていた時期もありました。
しかし、日本の「産学連携」という仕組みが抱える、構造的な問題に気づいたのです。大学の優れた研究成果が、必ずしも十分に社会実装や事業化につながっていないケースが少なくありません。研究成果の社会実装には大きなリスクが伴います。
しかし、そのリスクを主体的に引き受ける人がいなければ、優れた技術であっても実用化までたどり着けないケースがあると感じていました。
この画期的な技術を社会に実装して実用化するためには、誰かが人生を賭けてリスクを背負わなければならない。
そう考えたとき、「リスクを背負うべきなのは、他の誰でもない、自分自身だ」と確信したのです。
だからこそ、大学教員という安定した立場を離れ、自らベンチャーを立ち上げて社長に就任しました。
既成概念に縛られない発想が生んだ独自の経営哲学
── 研究者から経営者への転身にあたり、役割の違いによるとまどいや苦労などはなかったのでしょうか。
広津 私の中では、研究者も経営者もその本質はまったく同じだととらえていたので、違和感はまったくありませんでした。
研究者の仕事というのは、自分が実験によって導き出したデータや発見を、論文という形にまとめて、いかにして他の研究者たちに伝えるかという営みです。
外を向いて社会にアプローチする経営者の仕事も、自分が発明した技術の価値を、いかにして市場に正しく理解してもらうか、伝えるかという営みです。
伝える対象が「学会」から「社会」へと変わっただけで、やっていることの構造はまったく同じなのです。
また、私が経営をやるうえであえて意識していたのは、「過去の経営学の本や、他人の成功体験を読まないようにする」ということでした。
先人の知見は参考になりますが、それが固定観念になってしまうと、独創的な発想が生まれにくくなることもあります。
ですから私は、他人の成功パターンをそのまま追いかけるのではなく、自分自身の頭で考え、判断することを大切にしてきました。 その結果として、自分なりの自由な発想と独自の決断力を保つことができたのではないかと考えています。
トップの「即断即決」が組織のスピード感を担保する
── 日々の経営判断を下すうえで、もっとも重要視している心がけは何ですか。
広津 社長に就任してからの10年間、これだけは絶対に外さないと決めて一貫して実践してきたのが「即断即決」です。
何かを判断しなければならないとき、迷ったり、時間をかけて先延ばしにしたりしないことを心掛けてきました。
ビジネスの現場において、トップの決断が遅れることは、組織にとって最大の害悪です。社長が判断を保留にしているその時間、下にあるすべての組織や現場の動きが完全にストップしてしまい、結果として競合に遅れをとることになります。
たとえその決断が100%の正解でなかったとしても、間違っていればその都度、即座に修正すればいい。
何よりもスピード感を担保することこそが、トップが果たすべき最大の責任だと考えています。
組織マネジメントの妙。大学の研究室と民間企業の決定的な違い
給料を払う社員と、授業料を納める学生の動かし方
── 大学の研究室と民間企業の組織マネジメントにおいて、どのような違いを感じていますか。
広津 会社という組織は、社長が社員に対して「給料を払っている」組織です。
一方で大学の研究室では、学生が自ら学ぶために集まってくるという側面があり、企業とは組織の成り立ちが大きく異なります。
この違いを考えると、少なくとも私自身は、大学の研究室をマネジメントすることの方が、企業経営とは異なる意味で非常に難しかったと感じています。
給料を払っている会社であれば、業務としての命令やインセンティブが明確に機能しますが、授業料を払って来ている学生に対して、会社のような強制力や忠誠心を期待することなどできません。
学生一人ひとりのモチベーション や主体性をいかに引き出し、自発的に動く組織を作るか。
あの手この手を尽くして学生のやる気を引き出すという、きわめて難易度の高いマネジメントを大学時代に経験していたからこそ、民間企業の経営に移ったときも、人の動かし方や組織のまとめ方において、大きな苦労を感じずに済んだのだと思います。
グローバル市場を見据える。黒字化を実現したバイオベンチャーの未来
アメリカ、そしてアジアへの海外展開
── HIROTSUバイオサイエンスがこれから見据えている、未来の展望について教えてください。
広津 まず、目の前で見えている重要なマイルストーンは、本格的な「海外展開」の推進です。
バイオベンチャー業界では、長期にわたる研究開発投資のため、上場後も収益化までに時間を要する企業が少なくありません。そのような中で、私たちは事業として黒字化を実現し、次の成長フェーズへ進む基盤を築くことができました。
しかし、がんで困っている人々は日本国内だけでなく、世界中に存在しています。私たちの使命は、この技術を日本だけでなく、世界中の人々に届けることです。
今年からは、アメリカ市場への本格的な進出をはじめ、アジア圏も含めたグローバルな海外展開を一気に加速させていきます。
科学者としての究極の夢。技術の実用化に特化した大学の設立
── 最後に、広津社長が人生の最終章で成し遂げたいと考えている、もう一つの夢を教えてください。
広津 私の人生の最終的な夢は、自らの手で「新しい大学を設立すること」です。
日本の現在の大学教育、特に理系の研究室というのは、優れた技術や種(シーズ)を持ってながらも、それらを社会実装や事業化へとつなげるための仕組みや機会が、まだ十分ではないと感じています。
だからこそ、私は、世界中から優れた技術や才能を集め、それを単なる論文として終わらせるのではなく、社会課題の解決や事業化へとつなげていくことを目指す、「技術の実用化に特化した新しい大学」を創りたいのです。
私自身が、研究者から経営者へと転身し、 リスクを背負いながら技術の実用化に挑戦してきました。その過程で培ってきた経験やノウハウを、次の世代へ継承していきたいと考えています。
そのための教育機関を創ることこそが、私が人生の最後に果たしたい、社会への最大の恩返しだと考えています。