Monozukuri VC 牧野氏

日本の強み「モノづくり」を武器に、世界のハードウェア・スタートアップを試作から量産化、資金調達まで支援する株式会社Monozukuri Ventures。代表の牧野成将氏は、2005年に京都でこの道に入って以来、一貫して現場で挑戦者と伴走してきた。

なぜ東京ではなく京都にこだわり、日米をまたぐモノづくり特化型VCをどう築いたのか。

歩みと苦難、個の力を引き出すリーダーシップ、「100年先」を見据えたファンド構想まで語ってもらった。

牧野成将(まきの・なりまさ)──株式会社Monozukuri Ventures CEO
1979年、愛知県生まれ。神戸大学卒、同大学院修了。2005年、フューチャーベンチャーキャピタル(現ミライドア)入社。2009年、公益財団法人京都高度技術研究所(ASTEM)での起業支援・投資活動を経て、2015年にハードウェア・スタートアップの試作・量産化を支援する株式会社Darma Tech Labsを創業。2020年にNYの提携先企業と経営統合し、株式会社Monozukuri Venturesを設立。2017年7月にスタートアップの試作と投資を行う国内初のファンド「MBC Shisakuファンド(1号ファンド)」、2021年1月に2号ファンドを設立し、50社を超える日米のスタートアップに投資を行っている。

豊橋での危機感と「大学発ベンチャー」との出合い

── これまでの歩みと、いまの事業に至る原点からお聞かせください。なぜものづくりに特化したVCを立ち上げようと思われたのでしょうか。

牧野 出身は愛知県の豊橋市で、大学は神戸へ。ベンチャーに関心を持ったのは学生時代です。ちょうど「大学発ベンチャー」が注目され始めた時期で、それを研究テーマにしていました。

Monozukuri VC 牧野氏
学生時代の海外訪問(写真提供=Monozukuri Ventures)

研究の一環で先生方に「なぜリスクを取ってまで起業したのか」とヒアリングを重ねるなか、医学部のある先生の言葉が深く刺さりました。

希少疾患のように患者数が少ない薬は、市場が小さくて製薬企業がなかなか動かない。それでも「目の前に待っている患者さんがいる。だから自分が会社を興して薬を届けるんだ」と、まっすぐな目で語られたのです。

技術も知識もない学生の私には、その姿が格好よく映り、小さくとがったベンチャーこそ次の時代を切り開くのだと確信しました。

ただ、私は技術者でも研究者でもなく、プレーヤー側に立つのは難しい。ならば、こういう志を持つ起業家を陰から応援できる仕事はないか、と考え始めたのがすべての始まりです。

もう一つの原点が、地元・豊橋の光景でした。中学高校のころは活気にあふれていた駅前が、帰省のたびに寂れていく。郊外に大型商業施設ができ、中心市街地から人が消えていく。若者の働く場が失われていく現実に危機感を覚えました。

研究する中でベンチャーには雇用を生む力があることを学びました。「地方で新しいベンチャーが次々に生まれれば、雇用が生まれ、街がもう一度元気になるのではないか」。

起業家支援と地方の活性化は、私のなかで一つに結びつきました。

なぜ東京ではなく「京都」だったのか

── ベンチャーバブルの全盛期に、なぜ東京ではなく京都を選んだのですか。

牧野 2005年当時は「ヒルズ族」という言葉がはやり、東京ではベンチャーのエコシステムが急速に整いつつありました。

ただ、できあがった東京へ行っても大きな仕組みの歯車の一つにしかなれない。私がやりたかったのは、ベンチャーが生まれる仕組み自体をゼロから作ることでした。

そこで、まだ未成熟でポテンシャルの大きい場所はどこか考え、浮かんだのが京都です。京都で成功させられれば、ほかの地方都市にも応用できる。

逆に、これだけ条件のそろった京都でできなければ、地元・豊橋のような街での活性化など無理だろう。そんな背水の陣の覚悟で、新卒で京都のベンチャーキャピタル(VC)に入りました。

あと京都を選んだ確信を後押ししてくれた言葉があります。ある勉強会で、堀場製作所を創業した堀場雅夫さんに「国内でやるなら東京に行きなさい。でもグローバルでやるなら、あえて東京にいる必要はない」と言われました。裏を返せば、世界を相手にしないなら京都にいる意味がない。その一言が、いまも私の原点になっています。

── 新卒で入社されたのが、独立系のフューチャーベンチャーキャピタルですね。

牧野 ええ。当時のVC業界は、証券会社系や銀行系など大手金融機関の傘下がほとんどでした。そのなかでフューチャーは数少ない独立系で、滋賀出身・京大卒の創業者が京都を拠点に立ち上げた会社です。何もないところから自力でVCを興した姿勢が、私の理想と重なりました。

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ベンチャーファイナンス実践塾の修了式(写真提供=Monozukuri Ventures)

さらにこの会社は、岩手や石川など地方の自治体と連携し、その土地の資金で地元のスタートアップを育てる地域特化のファンドを組成していた。「地方にベンチャーを根づかせ、雇用を生む」という私の問題意識と一致していたのです。

シリコンバレーの衝撃と「生み出す仕組み」

── その後、海外にも目を向けられています。

牧野 地方で動くほど、東京との規模とスピードの差を突きつけられ、「やはり東京でなければダメなのか?」と悩むこともありました。そんなとき、憧れのシリコンバレーをこの目で見たくなり、有休を取って飛びました。

現地で世界中の起業家と桁違いの投資額を目にしたとき、視界が晴れました。世界基準で見れば、東京も京都も「どんぐりの背比べ」にすぎず、国内の小さな差で悩むこと自体が本質ではないと気づいたのです。

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2014年にシリコンバレーのNest Labs(現Google Nest)を訪問(写真提供=Monozukuri Ventures)
シリコンバレーを訪問
シリコンバレーでGoogleを訪問(写真提供=Monozukuri Ventures)

決定的だったのは、オープンAIのサム・アルトマンも代表を務めていたYコンビネーターです。彼らは集まるのを待つだけでなく、まだ形にもなっていない起業家をプログラムで自ら生み出していた。

日本の地方の弱点は、そもそもスタートアップの数が少ないこと。待つだけでは何も変わらない。「生み出す取り組みをセットでやらねば成功しない」と確信しました。

── 衝撃を受けて帰国してからはどうされたのですか?

牧野 新規事業として提案した直後の2008年、リーマン・ショックが起きました。年200社規模だった新規上場が20社を下回る水準まで冷え込み、VC業界は一気に冬の時代へ。新規事業どころではありません。

それでも想いは消えず、次に京都高度技術研究所(ASTEM)へ移りました。堀場雅夫氏らが京大などの技術シーズを社会実装するための組織で、ここで0から1を生み出すインキュベーションに打ち込みました。

ただ、行政の外郭団体ゆえに「京都市内限定」の壁があった。関西全体、さらにグローバルへ視野を広げたい。そこで声がかかったのがサンブリッジです。日本オラクル初代社長を務めたアレン・マイナー氏が創業した、日米の架け橋となるVCでした。

大阪・グランフロントの開業を控え、大阪市がスタートアップを中心とした街づくりに取り組む時期で、関西エリアのマネジャーとして迎えられた。この経験が、のちのMonozukuri Venturesへの直接の助走になりました。

「あなたは何ができるのか」──モノづくり特化型VCの誕生

── サンブリッジで日米を往復するなかで、「モノづくり特化」という発想はどう生まれたのですか。

牧野 2012年ごろから、念願の日米での投資活動を始めました。シリコンバレーで魅力的なスタートアップに「ぜひ投資させてほしい」と伝えたところ、若い起業家にこう返されました。

「投資はありがたい。ところで、あなたは私たちに何ができるのですか」と。

頭を殴られた思いでした。世界中から資金が集まるシリコンバレーでは、ただお金を出すだけのVCに価値はない。「資金に加え、どんな付加価値を出せるかを示さなければ、選ばれるVCにはなれない」。強い危機感を抱きました。

Monozukuri VC 牧野氏
海外メンバーも交えてのイベントの様子(写真提供=Monozukuri Ventures)

以来、「日本人である自分たちが世界に提供できる価値は何か」を問い続けました。GDPや市場の魅力を語っても響かない。ただ一つ、彼らが目の色を変えたのが「モノづくり」の話でした。

── なぜモノづくりだったのでしょうか。

牧野 彼らが直面していた深い「死の谷」があったからです。米国のスタートアップの多くは、最初の試作は自国で作れる。ところが量産化しようと海外の工場に委託した途端、多くがつまずく。1個だけ作る試作と、同じ品質で数万個を安定してつくる量産とは、別次元の専門知識が要るからです。この「量産設計」の壁を越えられず、資金と時間を溶かして倒れる。これが「死の谷」です。

理由を尋ねると、彼らは言いました。

「日本にはトヨタやホンダ、ソニーがある。日本人はモノづくりが得意なはずだ。どうすれば死の谷を越えられるのか、教えてほしい」と。

これだ、と思いました。世界の誰もが認める日本の強みこそ、私たちが差別化できる武器の一つだと。これを解くモノづくり特化のVCなら、巨大VCを相手にしても世界で勝負できる。そう確信し、2015年にDarma Tech Labs(現Monozukuri Ventures)を立ち上げました。

10年の歩みと、市場を動かした支援実績

── 創業からこれまでを振り返ると、どんな10年だったのでしょうか。

牧野 大きく四つのステージがあります。第1は創業期、試作から量産化への「死の谷」を技術面から支えるモノづくり支援の確立です。図面を引き直し、日本の製造業のネットワークをつなぐ泥くさい現場仕事でした。

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創業メンバーの3人。(左から)藤原健真氏(LENZO代表)、牧野氏、竹田正俊(クロスエフェクト代表氏)(写真提供=Monozukuri Ventures)

しかし技術支援だけでは足りません。ハードウェアには莫大な資金がいる。そこで2017年に、試作に特化したファンドを組成し、投資事業を始めました。資金と技術の両輪で支える構造を固めたのです。

第3が、グローバル展開の本格化です。米国の企業と経営統合し、社名をいまの「Monozukuri Ventures」に変え、日米をつなぐ体制が整いました。

現在進行形の第4が、大企業との連携です。ハードのスタートアップの多くは、大企業の製造ラインに組み込まれるBtoBやBtoBtoBのモデルをとります。彼らがスケールするには、大企業に採用され、サプライチェーンの一部になれるかが決定的に重要です。そのためのマッチングや共同開発に、この数年は特に力を入れています。

── 具体的にどんな製品が生まれたのでしょうか。

牧野 分かりやすい例が「スマートマット」です。コピー用紙や部品、食材などの下に敷くだけで、残量を重さで検知して自動発注するIoT重量計で、アイデア段階から量産設計まで伴走しました。コロナ下の人手不足や非接触ニーズをとらえて普及し、いまでは約1800社に導入され、現場のDXを支えるインフラに育っています。

材料領域でも成果が出ています。半導体材料のスタートアップでは、国内大手の日産化学との量産化契約をまとめ、大手半導体メーカーであるロームの製造ラインでの実装につなげました。

グローバルなエグジットでは、アップルが発表した空間コンピューター「Vision Pro」の原型となった技術を、ごく初期から支援した海外のスタートアップが手がけていた例があります。そのモノづくり技術が評価され、最終的にアップルに買収される象徴的な成功も生まれました。

── 日米にまたがる専門家集団を率いるうえで、最も意識していることは何ですか。

牧野 私が最も大切にしているバリューが「Be one team」です。ラグビーやバスケットに着想を得ています。集まるのは専門性の高いプロばかりで、全員が同じ役割を目指してもチームは機能しません。体を張ってスクラムを押す人がいれば、俊足でトライを決める人もいる。役割が違うからこそ、一つの強いチームになれます。

私が考えるリーダーの仕事は、細かく指示を出すことではありません。「自分の後ろには必ず信頼できる仲間がいて、パスを受けてくれる」と全員が信じ合える環境をつくることです。ゴールさえ共有できていれば、あとは専門領域で裁量を委ね、任せきる。この信頼の連鎖が、リーダーシップの根幹だと信じています。

── いまの姿にたどり着くまで、迷いはありましたか。

牧野 ありました。挑戦への憧れは学生時代から一貫していましたが、20代、30代は「自分が社会に貢献出来ることは何か」と悩んだ時期もあります。シェアオフィスやコワーキングの立ち上げで多様な人と壁打ちを重ねるうち、モノづくりベンチャーの発想が練り上がっていきました。

── 「ONE TEAM」というお話がありましたが、牧野さんご自身もバスケットボールの経験者だそうですね。

牧野 ええ、学生時代はバスケットボールに打ち込んでいました。役割の違うメンバーが一つのゴールへ向かう感覚が、頭ではなく体に染みついている。私のチーム観の原点は、案外そこにあるのかもしれません。

地元・京都のプロクラブである京都ハンナリーズも、時間を見つけては応援に行っています。ハンナリーズはいま新しいアリーナの構想が進んでいると聞いたのですが、一つ提案したいのが、スポーツとスタートアップをつなぐ仕掛けです。

たとえばプロ野球のDeNAベイスターズのように、スタートアップ向けのVIP席や招待枠をアリーナに設けてはどうしょうか。試合という熱量の高い場に経営者や投資家、エンジニアが集まれば、企業とファン、そして挑戦者同士の新しい接点が生まれる。京都のスポーツとスタートアップが、そこで交わるはずです。

「牛のよだれのように」──京都が教えてくれた成熟の価値観

── それは面白そうな取り組みですね。ところで、これまでの支援を日本で成り立たせているのが、地元・京都のものづくりの厚みだと思いますが、牧野さんは「京都試作ネットがなければ、この会社はなかった」とまで語っておられます。

牧野 その通りです。私たちが世界のスタートアップに「日本の力で死の谷を越えさせる」と言えるのは、背後に「京都試作ネット」という最強の職人集団との連携があるからです。

京都試作ネットは、約25年前、大手電機メーカーの下請けだった京都の中小企業の経営者たちが集まって生まれたグループです。当時は大手が生産拠点を海外へ移し、町工場は仕事が枯れる危機にありました。

Monozukuri VC 牧野氏
京都試作ネットの海外での展示会を訪問(写真提供=Monozukuri Ventures)

そこで選んだのが、下請けからの脱却と、付加価値の高い「試作」への特化です。1社では営業力が弱くても、数十社が連携すれば、複雑な試作の依頼にも窓口一つで応えられる。「京都をモノづくりベンチャーの都」にしたいと同じ波長で響き合っています。

── 長く京都でビジネスをして、この街の価値観をどう感じますか。

牧野 最も価値観を変えられたのは、京都の人が持つ「長く続けることへの独特のこだわり」です。忘れられない教えがあります。「ビジネスは、牛のよだれのように途絶えることなく続けろ」。牛のよだれは、切れそうで切れず、長く伸び続けますよね。一過性のブームで派手に稼ぐより、どんなに苦しくても事業を途絶えさせず、何十年、何百年と続けることにこそ価値がある、という考え方です。

これは、数年で急成長して早期に売却するシリコンバレー型の発想とは対極にあります。しかし私は、この「長く続けることへのこだわり」こそ、これからのモノづくりに重要だと確信しています。

技術を守り、雇用を維持し、歴史を紡いでいく。京都ならではの価値観に触れ、VCとしての姿勢も、より腰の据わったものになりました。

第5フェーズ──「ベンチャー・クリエーション」と「100年ファンド」

── 最後に、これから見据える未来をお聞かせください。

牧野 いまは、2028年ごろから本格化させる「第5ステージ」の準備を進めています。中核が「ベンチャー・クリエーション」です。これまではすでにあるスタートアップを見つけて支援してきましたが、これからはさらに踏み込み、優れた技術を持つ大学や大企業と組んで、ゼロからスタートアップを生み出しプロデュースする役割を担います。

講演するMonozukuri VC 牧野氏
(写真提供=Monozukuri Ventures)

日本の大学や大企業には、世界を変えうる研究成果や特許が、日の目を見ないまま眠っています。

しかし研究者や技術者には、会社として立ち上げるノウハウがない。そこを私たちが、事業計画から資金調達、量産設計のスキーム構築まで担い、必要ならプロの経営者を送り込む。事業が生まれる瞬間から伴走し、世界に通用するハードテックベンチャーを生み出す。これが次に見ている景色です。

── その裏づけとして「100年ファンド」という構想も掲げていると。

牧野 はい。通常のVCファンドは10年で満期を迎え、その間に上場や売却で資金を返さねばなりません。

しかしディープテックやハードウェアを、わずか10年で世界的なインフラ企業に育てるのは、製造や実験を伴う以上きわめて難しい。あのスペースXでさえ、いまの規模まで20年以上を要しています。

目先のリターンだけでは、人類の未来を変えるモノづくりは育ちません。

だからこそ、京都の「続けることに価値を置く」という思想を、ファンドの形にしたい。10年で拙速に成果を求めるのではなく、20年、30年、そして100年後の社会に本当に必要な技術へ、腰を据えて投資し、育て続ける。

「短期的な利益の追求」から「持続可能な未来への投資」へ。そんなVCが世に一つくらいあってもいい。

京都から、世界のハードテックの未来を変える投資のあり方を、本気で証明してみせます。