首や手首に着けるボディケアアクセサリーで知られ、多くのトップアスリートに愛用者を持つファイテン。金属をナノレベルで水中に分散させる独自の「アクアチタン(アクアメタル技術)」を核に、ネックレスやテープ、化粧品、医療機器、アパレルまで幅広く展開する。
ファイテンの社名は、ギリシャ文字の「φ」(ファイ)と英語の「10」(テン)」を組み合わせた造語といい、φは無限の可能性や調和・バランスを、TENは数字の10を表し、「無限の可能性が10に、そしてさらに無限に広がっていくように」という願いが込められているという。
その原点は、創業者・平田好宏氏自身が20代で難病に倒れ、医学書を独学しながら薬に頼らず回復したという、常識の外側にあった。
「儲かるほうにトンと乗り換えただけ」と、自らの歩みを振り返る平田氏。治療院で患者に手渡していたホームケア用品が爆発的に売れ、物販へと転じてから今日まで四十数年。社員を「仲間」と呼び、その幸せを経営の中心に据える平田氏に、事業の来歴と技術への信念、京都という土地の意味、そして描く未来を聞いた。
難病、そして「治す」への疑問から始まった
── 御社は知らない人がいないほどの有名企業ですが、そもそも、この事業を立ち上げるに至った原点から聞かせてください。
平田 この仕事を始めたきっかけは、私自身の病気です。20歳を過ぎた頃、膠原病、当時は難病とされた病気だと診断されました。筋肉が炎症を起こす病気で、それが最終的に心臓に来たらアウトだと。診察に行ったらいきなり車椅子に乗せられて、そのまま病室へ運ばれるほどでした。
よほど症状がきつかったのでしょう、すぐに医療費無料の申請もしてもらいました。当時の私の仕事は飲食業で、不摂生な生活をしていましたから、それが原因かどうかも分からない。そもそも原因不明の病気で、いまだになぜ発症したのか分かりません。
ところが、もうダメだろうと思われていたのが、なかなか深刻にならない。病院で少し休んだらかえって元気になってきて、いろいろな検査をされました。正直に言えば、実験材料のようなものだったと思います。体中を調べられたり、大学病院に回されたり。
そうこうするうちに、結果的には半年で退院しました。それから今に至るまで、およそ半世紀、症状はほとんど顕れていません。これは非常に稀(まれ)なケースだったようです。
── その回復体験が、後の事業につながるわけですね。
平田 自分がその病気になったこと、そしてまれにみる回復をしたことに、どうしても興味が湧いたんです。医学のことなどまったく興味がなかったのに、家庭の医学書から始めて、難しい本まで読んで、中身が理解できるようになりました。
それで、療術師のライセンスを取って、京都市内で治療院を開業しました。飲食業のほうは家族に任せて、どこにも修業せずに、いきなり治療の世界に飛び込んだんです。
平田 治療というのは、症状に合った治療ポイントを探すのが一番重要です。私は生体電気──身体に流れる微弱な電位に着目した方法を用いました。これは即効性があって、患者さんにはとても驚かれました。
ただ、やっているうちに気づいたんです。治療院に来るだけでは、患者さんは治りきらない。肩こりが取れても肩こり症が治ったわけではないし、その人の生活習慣や体質そのものが変わらないと、本当の意味では治らない。それで、家で行うホームケアが大事だと考えるようになりました。
── そのホームケアの延長線上に、今の技術が生まれたと。
平田 そうです。いろいろ試しているうちに、今のうちの技術ができてしまった。自然の中にある材料を使ってホームケア用のグッズを作り、患者さんに渡したら、非常にいいと好評で。
最初に作ったのがセラミックビーズという商品でした。売るつもりはなかったのに、『分けてほしい』という声が患者さんから起こって、値段をつけたら爆発的に売れた。もう、治療より物販のほうがはるかに収入が良かった。私は治療家として社会的使命も愛着もそんなになかったので、儲かる方にとんと乗り換えた。それから今日まで約40年やってきた、というわけです。
その後、金属を水に溶かし込む独自技術を確立しました。水に溶けないはずのチタンをナノレベルで水中に分散させた「アクアチタン」は、ネックレスやテープをはじめとする数多くの商品に応用され、世界各国・地域で100件を超える特許取得につながりました。
社員は「従業員」ではなく「仲間」
── 最初は一人で始めて、そこから組織になっていったわけですが、人を採用し、束ねるうえで大切にしてきたことは何ですか。
平田 最初は一人でやっていたのですが、とても手が回らなくなって、知り合いに声をかけて手伝いに来てもらいました。
どういうわけか、その頃手伝いに来た連中は、全部うちの役員になってしまいましたね。誰も辞めていないし、誰もクビにしていない。だからうちの雰囲気は、従業員や人件費を『経費』として考える普通の企業とは違うんです。半ば感覚的なものですが、みんな仲間だと思っている。
そのなかで私が考えてきたのは、「みんなに幸せになってほしい」ということに尽きます。
ただ、幸せというのは抽象的ですから、具体的に三つに絞りました。
一つ目は社会貢献。自分たちの仕事が世の中の役に立っているという実感です。これは誇りややりがいに直結する、絶対に譲れない点です。
二つ目は将来性。この会社で働くことに夢を見られるか。これは技術開発で示すしかない。うちの技術はまだまだ進歩させられると分かっていますから、効き目のレベルを上げ続けることで、みんなで未来の夢を共有できる。
そして三つ目が、利益です。経済的に裕福にならないと、みんな幸せになれない。正直、私はぼわーんとした人間で金儲けが下手なんですが、そこはこの十年、必死に取り組んできました。
利益はお客様から来る。ならば、高くても納得して喜んで買っていただけるものを作れるかどうか。価格と価値の狭間で、お客様が本当に理解し納得してくださる商品を出せるか。ここがチャレンジでした。
どんなに苦しい時でもリストラは一度もしていません。こちらから社員の首を切るという考えは、私にはまったくないんです。
── その三つは、いつ頃実現できそうですか。
平田 社会貢献と将来性は、もう達成できていると思っています。43年やってきて、「モノ売り」に見られたことは一度もないし、感謝の声は山ほどいただいている。技術も昔とは比べものにならないほど進歩しました。
残るは利益ですが、これも着々と前に進んでいて、来期からしばらく営業利益はどんどん上がっていく見通しです。従業員を経済的にも幸せにするという三点目は、2030年から2031年頃には達成できると思います。みんなに約束しましたからね。
私のリーダーシップは何かというと、会社のスタッフを仲間と思い、一緒に歩んでくれている仲間を幸せにする。それが嘘ではなく、実感として皆に伝わるようにしたい、ということです。全員とは言いませんが、かなり伝わっていると思う。会社の空気感は、無茶苦茶いいですよ。
「新しいもの」が京都から出る意味
── 京都に拠点を置き続けていることには、どんな意味がありますか。
平田 正直に言うと、京都という町に無茶苦茶愛着があるかというと、そうでもないんです(笑)。
ただ、私はもともと京都北部の丹後半島のほうで仕事をしていて、そこは織物業が主。京都は和装や呉服の町で、商売上のつながりがあった。だから独立するとき、至極当然に京都へ出てきました。
そして、これは京都でよかったと本当に思うのですが、うちのような変わった技術を出したとき、世間は『京都から出てきた、ある種斬新な技術だ』と捉えてくれた。「怪しいもの」ではなく、「新しいもの」として受け止めてくれたんです。
京都には、京セラさんや堀場製作所さん、村田製作所さんのように、古い町でありながら先端技術で世界に出ていった大先輩の企業がたくさんある。だから『新しいものは京都から出てくる』ということに、世間はあまり違和感を持たない。
これがもし別の土地だったら、受け取られ方は違ったかもしれません。京都で腰を据えて、全国、そして世界へ展開していこうと思えた。京都であることは、我々にとって非常に有利な材料になりました。京都には感謝しています。
2030年に見据える「ゴール」と、世襲しない決断
── これからの海外展開について聞かせてください。
平田 海外はまだまだ伸びしろがあります。ただ、本格展開にはハードルも多い。うちの技術は特殊なので、輸出時のチェックが厳しく、技術そのものを持ち出すには様々な器具も一緒に持っていかなければならない。国によっては電源プラグひとつでも規制がある。
今は、海外でも抵抗なく展開できるよう、ハードルの低い形にアレンジしている真っ最中です。人間である以上、日本人にも外国人にも同じように効きますから、材料さえ揃えば海外もかなり発展すると思っています。
特にアメリカには力を入れたい。もともとメジャーリーグには、うちの商品を使ってくださっている選手がたくさんいる。そこを切り口に、きちんと準備をしてから、アメリカなりのマーケティングを展開していこうと考えています。中国はいろいろな意味で要注意なので、有力なパートナーを見つけて代理店として展開してもらう方向で、今いいところが見つかっています。
── 会社の未来について、どう描いていますか。
平田 やっと、未来の扉が開いたのかなと思います。私は具体的に三つのテーマに限定して『いい会社』づくりをやってきました。社会貢献はもうできている。将来性も、開発でかなり先まで描きながらやっているので、技術の向上が枯渇することはない。スタッフ全員が夢を見続けることは可能です。あとは利益で、これも仕上がりはもうすぐ。
2030年、私は77歳になりますが、その時にまさしく最初に目指したゴールに到達する。その日が待ち遠しいですね。
── 事業の承継については、どうお考えですか。
平田 将来に対して決めているのは、世襲はしない、ということです。この事業も大事なものですから、平田家の持ち物にすべきじゃないと思っている。
もちろん、皆に認めてもらえる能力があるなら子どもが継いでもいい。ただ『ありき』ではない。今のところ、うちの子にも、継ぐ気持ちはまったくないと思います。外部から経営者を迎える手もあるでしょうが、私はやはり仲間内で次世代を育てようと思っていて、これは着々とうまくいっています。
私が少々手を抜いても、会社は確実に動く。今でもあまり口を出さず、任せ切る組織運営を土台にしていますから、近い将来、確実にみんなで運営できる組織になると思います。
最終的には、健康を通じて人が幸福を感じられる世界をつくりたい。うちのスタッフもそうだし、うちの技術を通じて社会の様々な方々にもそれを感じていただければ、病気を通じてこの仕事に至った自分自身の価値も感じられる。それをしっかり見届けてから、旅立とうと思っています。