万松青果 中路社長

京都中央卸売市場で青果仲卸業を営む万松青果株式会社。4代目の中路和宏・代表取締役会長は、業界の悪習にとらわれず、「やらないことを決める」方針を徹底。ともすれば嫌われがちな情報公開にも取り組み、幾多の危機を乗り越えてきた。

専務として入社した長男への事業承継を進めているという中路会長に、慣習を打破する過程で生じた社内外からの反発をどう乗り越えたのか、卸売業はどうあるべきなのか、そして、生まれ育った京都という土地への深い思いについて聞いた。

中路 和宏(なかじ・ かずひろ)──代表取締役会長
1963年京都市生まれ。28歳で家業の万松青果株式会社に入社。当時の従業員に「救世主」と迎えられたもののまったく期待に応えられず、実力不足を露呈し大量離職など数々のピンチに遭遇。その後、自らが考える企業のあるべき姿を追求するため、数々の改革を実行、現在に至る。52歳で中小企業診断士の資格を取得。経営者とコンサルタントの2足のわらじで活動中。

「賄賂を断れ」言葉なくして浸透する、本当の経営理念

──ウェブサイトには「創業明治39年」とあります。今年で119年になるのですね。

中路 はい。私が四代目で、屋号の「万松青果」の「万松」は、初代の曽祖父である中路萬次郎と松次郎の兄弟の名前から取ったと言われています。

祖父の代には、太平洋戦争中に満州へ渡り、家族で関東軍相手に「万松公司」という屋号で商売をしていました。終戦後に帰国し、京都中央卸売市場ができたタイミングで事業を再開しました。当初は量販店や、当時の主流であった小売業者に卸売りをしていました。

しかし、私が会社に入って間もなく、大手地場食品スーパーとの取引がなくなり、売り上げの6割を失うという大きな危機に直面しました。そこから業態を変えざるを得なくなり、最初に取引を始めたのが、京都の全日空ホテルで、そこからホテルとの取引を本格化させました。

現在では、京都と滋賀を中心に約350件のホテルや飲食店とお付き合いがあり、常時300件ほどに青果物を納めています。京野菜などは関東にも送っています。今となっては、このホテル向けの業態に舵を切ったのが正解だったと感じていますが、当時は大きな反発がありました。

── 反発ですか?

中路 仲卸業では、販売ロットが決まっているのが常識でした。たとえばレタスなら16個入り、ミニトマトなら15パックが最低ロット。それを、ホテル向けに小分けして販売することに対して、「なぜ卸売りなのに、そんな小売りみたいなことをするんだ」「お前のところはワンパックずつ売っているのか」と、業界の先輩方からさまざまなことを言われました。

「お前のところのせいで、うちから仕入れていた小売店が来なくなった」とあからさまに言われたこともあります。年上の先輩方から言われると、「すいません」と答えてはいましたが、心折れることはまったくありませんでした。すでにそちらの方向に舵を切っていたので、「何が悪いのかな」という気持ちでしたね。

おそらく私自身が「非常識」なのでしょう。しかし、この「非常識」こそが、私たちの生き残る道でした。大手スーパーだけを相手にしていれば、売り上げの7割ほどを占め、楽にやっていけたかもしれません。しかし、それに頼り切ってしまうと、下請けのような立場になり、大手の都合に振り回されてしまう。そのあり方が、どうしても気に入らなかったのです。

ただ、私は事業を「続けること」自体には、価値や魅力を感じていなくて、それよりも、会社が社会やお客様から「必要とされ続けること」が最も重要だと考えています。逆に言えば、必要とされなくなった会社や仕事に意味があるのかと常に自問しています。卸売業は、ずっと「中抜き」「不要」と言われ続けてきました。だからこそ、私たちは「必要とされ続ける努力」を何よりも大切にしています。

万松青果
(写真提供=万松青果)

理念として、「やらないことを決める」という考え方があります。弊社には、一般的な会社にあるような立派な経営理念を掲げたり、朝礼で唱和したりする文化は一切ありません。しかし、従業員には「後ろめたい取引や、家族に言えないような仕事は絶対にしない」ということだけは、入社時に伝えています。

この理念が浸透していることを実感する、非常に嬉しい出来事がありました。ある有名ホテルがオープンするという話を聞いて営業しましたが、なかなかアポイントが取れずにいました。しばらくして、そのホテル側から当社の配達担当者に直接連絡があったので、話を聞くと、料理長から賄賂を要求されたとのことでした。

驚いたことに、その担当者は、その場で「弊社ではそのようなことは一切できません」と即座に断って帰ってきたのです。

弊社には明文化された経営理念はありませんが、当たり前と考えていることが、言葉にしなくとも全従業員に浸透していたのです。これこそが、本当の意味での経営理念の浸透だと確信しました。 かつては、我々の業界でも不正行為が慣習として当たり前のように行われていました。私が会社に入ってからもそうでしたが、そんなことをしても何一つ良いことはありません。一時的には儲かっても、将来、自分の子供たちに胸を張って言えないような会社になってしまいます。99%は不正をしないが、1%の例外を残すと、その1%が「守らなくてもいい免罪符」になってしまう。私たちは「100%やらない」ということを徹底しています。

全社員が知る日々の粗利目標118万円。情報公開こそが最強の武器

── そういう組織をつくるために何に気を配っていらっしゃいますか?

中路 理念を浸透させ、会社を強くするために最も重要だと考えているのが「情報公開」です。大企業では当たり前かもしれませんが、中小企業では社長が会社の経営状況を従業員に見せたがらないケースが非常に多い。

しかし、当社では会社の経営状況がガラス張りで、どれだけ利益を出せば会社が存続できるのかを、全員が分かるようにしているのです。

万松青果
(写真提供=万松青果)

父は能力主義や評価制度を導入していましたが、うまくいかず、私の代で結局やめてしまいました。その結果、「決まった給料をもらっているだけ」と露骨に言う社員が出てきました。評価制度を廃止した結果、給与の拠り所がなくなってしまったのです。

そこで行き着いたのが、徹底した情報公開でした。自分の部署の売り上げが減っているのに、なぜ会社全体では儲かっているのか。それは他の部署が頑張っているからだと、社員がリアルタイムでフィードバックを得られるように、売り上げや利益、減価償却費や利息などの詳細な会計情報まですべて公開しています。

ボーナスや給料、販売費、一般管理費などすべての経費を、当社の年間の営業日数である250日で割ると、1日に稼がなければならない粗利益は「118万円」です。この118万円という数字は全社員が知っています。

仲卸業は毎日棚卸が一般的で、日々確定したその日の売上・利益を、キントーン上毎日リアルタイムで公開するようにしました。

情報公開をしていなければ、多くの有能な人材は辞めていったでしょう。儲かっている時は従業員に給料として還元し、逆にコロナ禍のような苦しい時期には「見ての通り厳しい状況なので、給料はこれでいきます」と正直に伝えられる。この信頼関係が非常に大きいのです。

コロナ禍の売り上げ9割減でも融資ゼロ。逆境をスキルアップの好機に

── これまでいろいろな問題や課題に直面されたと思いますが、どうやってその局面を乗り切られたのでしょうか。

中路 特にコロナ禍での売り上げ9割ダウンは深刻でしたが、実はその前に経験したリーマンショックの教訓が生きました。

当時、私と同年代の社員が顧客を引き連れて退職し、売り上げが激減。資金繰りも非常に厳しくなりました。当時の私は、売り上げや利益アップを連呼し、従業員を叱咤激励しましたが、その結果、皆が内向きになり、肝心のお客様の方を向く人がいなくなってしまったのです。

その反省から、「とにかくお客様に喜んでもらうことだけをしよう」と方針を180度転換したところ、売り上げが一気に回復しました。この経験があったからこそ、コロナ禍においても慌てませんでした。リーマンショックでの経験から資金は十分に用意しており、融資は一切受けずに乗り切りました。

またコロナ禍で仕事がほとんどない中、皆で「コロナが終わった時に『あの時あれをやっておいてよかった』と思える戦略を立てよう」と決め、個人のスキルアップに時間を費やしました。具体的には、女性社員が顧客の元へ商品紹介に行く活動を始めたり、ネイティブ講師を招いて英会話教室を開いたりしました。この業界の社員は外国人との接点があまりないので、良い機会になると考えたのです。

さらに、現場で働く人たちはITに弱い傾向があったため、社員全員にMicrosoft WordとExcelのスペシャリストの資格を取らせ、タッチタイピングの練習も開始しました。事務スタッフは、ITパスポートも取得しました。雇用調整助成金をもらうといった選択は取らず、個人の成長を優先したことが、結果的に会社の地力を高めました。

「失敗するチャンスを与える」──息子への事業承継と、あるべき経営者の姿

── 社長は4代目とのことですが、事業承継についてはどう計画されていますか?

中路 現在、長男が専務として入社して3年目になります。まさに今は事業承継の過渡期です。彼は25歳で、一般的に言われるような他社での「修行」をすることなく、新卒で当社に入社し、2年目で専務取締役に就任しました。

私自身は市場で修行したり、数百人規模の会社で働いたりした経験がありますが、私たちの業界に限って言えば、その「修行」が時代遅れだと感じていました。乱暴な言葉遣いや汚れた身なりを「当たり前」とするような「塀の中の常識」を学んで何になるのか。それならば、何も知らない状態で当社に入り、一般社会の常識を塀の中に持ち込むほうが良いと考えたのです。思っていたよりは、彼はできています。

ただ、業界の色に染まってほしくない、業界の常識に常に疑問を持ち続けてほしい、と願うのは難しいことだと感じています。あっという間に業界の慣習に染まっていく。業界の常識は居心地が良いのでしょう。楽で、あうんの呼吸で通じ合える人たちとばかり付き合ってしまう。これは今後の大きな課題です。

私自身、今後は中小企業診断士の資格も持っているので、そちらに軸足を移そうと考えています。しかし、完全に会社から離れるのは難しいでしょうね。やはり気になってしまいます。

それでも、私自身は息子に会社をすべて“ご破算”にしてもらっても構わないと思っています。すべてをなくして一からやり直すもよし、自分のやりたいようにやるもよし。私がまだ元気なうちに、息子に「失敗するチャンス」をたくさん与えたいのです。

私が取締役になった時は、会社の状態がギリギリで、母が資金繰りに悩み、何度も死を考えたような状況でした。踏みとどまるしか選択肢がなかった。それが遠回りになった一因だと感じています。だからこそ、息子には今のうちに何でも失敗できるチャンスを与えたい。

最近の若い世代は、非常にしっかりしていると感じます。地に足がついていて、礼儀正しく、最低限の仕事のスキルも持っている。だからこそ、一度ドカンと大失敗をして、ジタバタする経験も必要ではないかと思っています。そうしないと、事業を承継する側はなかなか成長できないのではないでしょうか。

京都への提言、“妻が夫に就職を勧める会社”の作り方

── 京都でビジネスをされていて思われる京都のポテンシャルや、逆に課題として感じることはありますか?

中路 ビジネスの場として、京都はすごい商売上手な土地だと思います。たとえば「京野菜」というブランド。大阪にも「なにわ野菜」がありますが、メディアに取り上げられ、40年以上前から市場に専用の販売システムまで作られているのは京野菜だけです。このビジネスセンスは素晴らしい。

一方で、不満な点もあります。京都人としての美意識が失われているのではないか、ということです。昔ながらの町家も高層マンションに囲まれて、逆に景観を損ねる存在です。ビルに埋もれる六角堂、空を覆う電線、狭い道にある歩道を塞ぐようにして立つ電柱、町中から山なんて見えません。「これでいいのかな」と。素晴らしいソフト(文化や歴史)があるのに、ハード(街並み)を大切にしてこなかったのは致命的です。

私自身が、この家業である青果仲卸という仕事にまったく誇りを持てなかった人間です。以前、社員の娘さんが「お父さんの仕事はサラリーマンじゃない」と言ったという話を聞き、非常に悲しくなりました。自分の子供の頃と同じように、父親の仕事を誇りに思えないのだと感じ、何とかしたいと思いました。

万松青果
(写真提供=万松青果)

その思いから最初に作ったのが、年間の維持費がわずか3万円の自社のウェブサイトです。このウェブサイトには、商品情報はほとんど載せていません。私たちの仕事のあり方や考え方だけを綴り、中小企業の仕事であっても、本当に社会に必要とされる大切な仕事なのだということを、従業員とその家族に理解してもらうためだけに作りました。

すると、サイトを見て「応募しました」という求職者が出てくるようになり、今いるスタッフのほとんどが、サイトをきっかけに入社してくれました。最も嬉しかったのは、8年ほど前、ある若い女性から「主人を面接に行かせてほしい」と電話があったことです。ご主人は面接で「妻に言われて来ました」と。当社の仕事内容も知らない奥様が、「主人に就職してほしい」と思ってくれる会社になれた。これほど嬉しいことはありませんでした。

私たちの仕事が、子供たちが憧れる職業になること。そして、社員が自分の会社を家族に誇れること。それが、私がこの仕事を通して実現したい最大の目標です。手を変え品を変え、常に変化し、必要とされ続ける努力を怠らない。一箇所にとどまらず、ルールを疑い、難しい道を歩み続ける。これからも、その姿勢を貫いていきたいと思っています。