渋沢栄一が設立に関わり、明治時代にはロシア皇太子も宿泊したという、由緒ただよう老舗・京都ホテル。京都の歴史と共に歩み、2026年には創業138周年を迎える。
その舵取りを担う清水博氏は、日本政策投資銀行で長いキャリアを持ち、2025年6月の代表就任までホテル業界での勤務経験はない、異色の経歴を持つリーダーだ。
清水社長が目指すのは、総支配人をはじめとしたホテリエとともに、伝統という名の「ホスピタリティ」を継承すること、そして上場企業としての「持続可能な成長」──その両立である。
銀行員として培った合理的な視点と、現場の熱量に共感する柔らかなリーダーシップを持ち合わせた清水氏は、インバウンドの喧騒(けんそう)に沸く京都にあって、「変えてはいけないもの」を問い直す。大規模な設備投資を控えた京都ホテルの未来像とは──。
異業種からの着任、直感で捉えた京都ホテルの「本質」
── 日本政策投資銀行(DBJ)から、伝統ある京都ホテルのトップへ転身されたわけですが、まずは就任当時の率直な思いをお聞かせください。
清水 おっしゃる通り、私はずっと金融の世界で過ごしてきたのですが、就任にあたっては、あまり気負いすぎず、まずは自然体でいようと心に決めていました。 外から来た人間が「新しい風を吹かせる」と意気込みすぎると、往々にしてその組織が長年大切にしてきた本質を見落としてしまうからです。 まずは先入観を持たずに自分自身の五感で、このホテルが何によって成り立っているのか、その根源的な価値を正しく理解することから始めました。
── 実際に現場に入ってみて、どのような印象を持たれましたか? 金融の視点から見て「ここはすぐに変えなければならない」といった課題はあったのでしょうか。
清水 「これをすぐに変えなければならない」というネガティブな要素は、率直に申し上げてありませんでした。むしろ、強く感じたのは「ここは絶対に守り続け、変えてはいけない」という部分の大きさです。
具体的に申し上げれば、それはスタッフ一人ひとりに染み付いているホスピタリティの圧倒的な高さです。
── 「変えてはいけない」部分こそが、京都ホテルの強みだと。
清水 そうです。ホテルの扉を一歩くぐった瞬間に感じる、あの独特の静謐(せいひつ)さと温かさが共存する空気感。客室に入ったときにホッと安らげる、目に見えない配慮。これらは、一朝一夕にマニュアルで作れるものではありません。
私自身、一人の宿泊客として多くのホテルを利用してきましたが、豪華な設備以上に、スタッフとのわずか数秒のやり取りがその滞在の印象を決定づけます。京都ホテルのスタッフは、お客様に対して心から親切に、そして自然に寄り添うことができる。これは非常に強固な「見えない資産」であり、これを維持し、さらに磨き上げることこそが、極めて重要なミッションだと直感しました。
138年の歴史に裏打ちされた、三代続く「信頼の連鎖」
── その「ホスピタリティの高さ」は、どのような土壌から生まれてくるものだと分析されていますか?
清水 やはり、138年という気の遠くなるような歴史がなせる業でしょう。明治21年の創業以来、私たちは京都という土地で、お客様と共に歩んできました。私自身も学生時代を京都で過ごしており、この街の「時間の流れ方」を肌で感じてきました。
お客様の中には「祖父の代から三代にわたって、結婚式をここで挙げ、人生の節目には必ずこのレストランに来る」とおっしゃる方もいらっしゃいます。これは、単なる宿泊施設としての機能を超えた、ご家族の歴史の一部を預かっているということです。
── 親子三代で利用されるというのは、地域に根ざした老舗ならではの光景ですね。スタッフの方々もそれを意識されているのでしょうか。
清水 強く意識していますね。お客様からの声には、非常に温かい感謝の言葉もあれば、時には非常に厳しい叱咤激励の言葉もあります。しかし、その厳しい言葉の裏側には、必ず「京都ホテルにはこうあってほしい」という深い愛情と期待が込められています。スタッフはそれを敏感に感じ取っています。
長年通ってくださるお客様との対話を通じて、スタッフは「プロとしての誇り」を形成していきます。そしてその背中を見て、若い世代がまた育っていく。この伝統のバトンタッチが、結果として「京都ホテルらしさ」という形になって現れるのです。この歴史の厚みがあるからこそ、私たちは新しい挑戦に踏み出す際も、揺るぎない軸を持つことができるのだと考えています。
プロの視点で見据える「攻めの投資」と「ステークホルダーの満足」
── 前職で多くの企業の再建や成長支援、また大規模なファイナンスに関わってこられました。そのプロの視点を、今後の経営にどう注入していくお考えでしょうか。
清水 私の役割は、現場の細かなオペレーションに口を出すことではありません。現場の日々の采配やお客様への向き合い方については、経験豊富な総支配人を全面的に信頼して任せています。
私が果たすべき経営者としての責任は、京都全体、あるいは国内のホテル市場において当ホテルのあるべきポジショニングをしっかり意識し、現場のボードメンバーとも率直に議論しながら、より長期的な視点で冷静に経営資源を配分することです。
── 具体的に、今後どのような計画をお持ちですか。
清水 京都ホテルは、「ホテルオークラ京都」と「からすま京都ホテル」の二館を経営しています。このうちホテルオークラ京都について、来年から、客室周りのリニューアルを含む大規模な設備投資を計画しています。これは経営において非常に大きな決断です。投資の費用対効果の検討は出来るだけ現場の視点を取り入れたいと思いますが、同時に金融の世界にいた人間として、その投資がどのような付加価値を創出し、その結果、企業の持続可能性(サステナビリティ)がどう高まるのかを、様々なシミュレーションを行いながら見極めたいと思います。
東証スタンダード市場の上場企業として、私たちは多くのステークホルダーに支えられています。宿泊のお客様には安らぎを、株主の皆様には適切なリターンを、従業員には誇りを持って働ける環境と待遇を、そして地域社会には宴会場、レストランの美味しい料理等を通じて京都の交流の場を提供したいと思います。これらすべての関係者にとって、京都ホテルが信頼され、価値あるものにしなければなりません。
伝統に安住するのではなく、経済合理性を持って攻める。微力ではありますが銀行員時代に培った「事業性を見極める力」を、自社の成長のためにフル活用したいと思っています。
24時間・365日の緊張感。ホテル業の特殊性と醍醐味
── 金融の仕事とホテル経営では大きく異なると思いますが、実際にトップとして指揮を執り、最も大きな違いを感じるのはどのような点ですか?
清水 ホテル業の特殊性として強く感じているのは、「24時間365日、決して止まらない」という点です。金融もグローバルで動いてはいますが、ホテルは目の前で物理的にサービスが提供され続け、お客様が文字通り生活(滞在)されている。そこにはすさまじい現場の緊張感があります。
私が夜、自宅で休んでいる間も、ホテルでは誰かがお客様のために動き、安全を守っている。この重みは、経営に直接携わる中で初めて肌で実感できました。
── 精神的なプレッシャーも大きいのではないですか。
清水 もちろんです。お客様の体調の急変や、予期せぬトラブルなど、何が起こるか分かりません。その際、現場のスタッフは瞬時に判断し、ベストを尽くさなければなりません。この「緊張感を高く保つ」ということと、「お客様に究極の安らぎを提供する」というミッション、この二つの要請を同時に満たさなければなりません。
── その「現場の熱量」を維持するために、社長が心がけていることはありますか。
清水 スタッフが自らの仕事に誇りを持ち続けられるよう、経営の透明性を高め、会社の経営理念、我々が何を目指しどこに向かっているのか、なぜこの投資が必要なのかなどのことを丁寧に伝えることです。そうすることで、現場の緊張感が「単なる作業」ではなく、「自律的なサービス」に昇華されると考えています。マニュアルを超えた感動は、スタッフ自身の心の余裕と誇りからしか生まれませんから。
京都ホテルの独自性、それは「本質の一致」と「行動の自由」
── リーダーとしてこうあるべきだという、あり方の理想像はお持ちですか?
清水 望ましいリーダーシップのあり方は業態などによって異なるでしょう。ホテルについて言えば、主人公は一人ひとりの従業員だと思うので、従業員一人ひとりがやりがいを持って明るく仕事ができるような職場環境を作っていくことが、一番大事なことだと思っています。従業員がそういう気持ちで働くとお客様の満足度も高まり、ホテルの価値も高まる。その結果、また従業員が気持ちよく働くことが出来る。この好循環を作り、従業員のエンゲージメントをいっそう高めることが、リーダーの重要な役割ではないでしょうか。
大事な意思決定に際しては、京都ホテルの経営理念である「顧客主義」「ステークホルダーからの信頼」「従業員満足の向上」の3つの原点に立ち戻ることが重要だと考えています。
── 経営理念に従業員満足が入っているんですね。
清水 その通りです。従業員の満足は、お客様に満足頂くために必要不可欠な要素だと考えています。
── 課題に直面したときの対処法として、ご自身が守っていること、実践していることは?
清水 思い返してみると、大事だと思えることが3つあります。一つ目は目の前の困難から逃げずに正面から向き合うこと。二つ目は、困難を切り抜けるソリューションを、自身の頭でしっかり考え抜くこと。そして三つ目は、周りを信頼して相談し、協力を求めるということです。当たり前のことかもしれませんが、これらを大事にしていますね。
それと、私が指針としている言葉があります。「本質において一致、行動において自由、すべてにおいて信頼」という言葉、これは、多様な個性が集まる組織を一つの方向へ導くために有益な発想だと思います。
まず「本質において一致」とは、お客様に最高の価値を提供するという目的において、全員が同じ方向を向くことです。ここがぶれてはいけません。 そして、「行動において自由」であることも重要です。日々の現場でのお客様のニーズは千差万別です。現場のスタッフが、目的(本質)を理解したうえで、自分の目の前のお客様にとっての最善のサービスを自立的に考え、自由に行動できる環境。これが、画一的ではない温かなホスピタリティを生みます。
スタッフが、理念(本質)を理解したうえで、自分の目の前のお客様にとって何が最善かを考え、自らの判断で動く。その自由を認めることで、京都ホテルならではの「温かみのあるサービス」が生まれるのです。
それらを支えるのが「信頼」です。一人では成し遂げられない仕事だからこそ、チームとしてお互いを信頼し、助け合う。この関係性が構築されることが、理想的な組織の形ではないかと考えています。
── 地域コミュニティとの関わりについては、具体的にどのような想いをお持ちでしょうか。
清水 「京都ホテルがないと困るね」と思っていただける、街のインフラのような存在であり続けたいと思っています。ホテルは「遠方からのお客様を地域に迎える場」であると同時に、「地域の方々が集う場」でもあります。
京都ハンナリーズさんにも当ホテルをご利用いただいていますが、実は私は、前職の政策投資銀行では、スポーツ×地域振興の業務推進にも携わった経験があります。地元のコミュニティや団体、スポーツ関係者への交流の場の提供なども通じて、地域にとってなくてはならない存在になりたいと考えています。
「第2創業期」として、歴史の強みを次世代へつなぐ投資を
── 2027年以降、大規模な改装も予定されているそうですね。中長期的な視点を含め、今後の展望についてお聞かせください。
清水 現在、3ヵ年の中期計画において客室周りの設備投資の検討を進めています。コロナ禍という、創業以来最大の危機を経験したことで、私たちは自分たちの事業基盤を嫌というほど問い直されました。その結果、運営体制は以前よりもはるかに筋肉質で、強固なものになりました。
そこで、3年かけて順次改装を行いますが、営業を継続しながら「先手先手」で改善すべき点は改善し、同時に新しいニーズも取り込んでいきます。これを機にハード面だけでなく、ソフト面であるサービスの質もよりいっそうステップアップさせたいと考えています。
また、和・洋・中それぞれのレストランでの季節毎の新たな企画や、旅行事業を担う部門による「季節の旅」といった独自の取り組みも継続します。「季節の旅」は京都の代表的な観光地をすでに巡ったという方に対しても訴求力を持つ、近隣県も含めた古都の良きものを深く味わっていただける企画です。
── さらにその先、次の100年を見据えた「京都ホテルのあり方」をどう描いていますか。
清水 50年、100年先を見据えるには、まず足元の価値を再認識することが不可欠です。コロナ禍を乗り越え、現在は筋肉質な運営体制が整えた上でこの先を見据える「第2創業期」にあるととらえています。京都のど真ん中という至便な立地、そして客室・宴会場・レストランが高い次元でバランスよく整っている施設内容は、歴史が育んだ私たちの大きな強みです。
この強みに、長年育まれたホスピタリティを掛け合わせ、次の世代に確実に引き継いでいくことが私の使命です。お客様の志向や技術の進歩に伴い、求められるニーズは時代ごとに変わりますが、私たちは常に感度の高いアンテナを張り、それらに誠実に向き合い続けます。長期的な視点で最も大事なのは、この伝統ある「京都ホテル」としての本質を忘れることなく、変化に対応し続けることだと確信しています。